現代美術―モンゴル社会を映す鏡

Ariunaa Jargalsaikhan
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CONTEMPORARY ART – MIRROR OF MONGOLIAN SOCIETY (CONTINUED)

近年、現代美術は人気のある広告ツールのようになっている。モンゴルでは、どこでもあらゆるイベントやショー、コンサート、パーティー、セレモニーを開催する際、現代美術プログラムを盛り込む傾向にある。このようなイベントに参加し、携帯電話で写真を撮り、SNSに投稿することがトレンドとなっている。現代美術が伝統的なメディアおよびソーシャルメディアを通じて大きな話題となるようになったことは、社会の発展への一歩であるが、実際に美術をただ単にエンターテイメントと同一視する傾向が明白になりつつある。

本来、芸術、特に現代美術は、社会が直面している問題を直視し、原因を理解し、長期的な解決策を見つけるためにアイディアや動機付けを提供する力を持っている。このことをモンゴルのような人口の少ない国では、社会的意識や思考においてどれだけ重要かを理解し、催しで使われる美術を形ではなく、その内容に焦点を当てて企画し、主催者のマーケティングよりもアーティストの思想、意図するところを強調すべきだ。したがって、作品の社会への影響や意義について議論し、作品のさらなる理解に注意を払う必要がある。

2022年6月、モンゴル芸術委員会が国際メディア芸術祭を開催した。この祭典は、ウランバートルだけでなくサインシャンドなど、いくつかの地方都市でも開催された。この祭典のドルノゴビ県のプログラムには、「ホゥフナル(青い太陽)」という現代美術センターのアーティストたち(Yo.ダルハ−オチル、S.フラン、N.ソニンバヤル、D.エルデネジャルガル、J.シジルバートル、B.トゥグルドル、D.ツェングーン、E.エンフザヤー、J.アノナラン、D.オトゴンバヤル、B.バト−エルデネ)が、アートキャンププロジェクトで参加し、独自の作品を紹介した。

現代美術を上述した目的に近つけるため、ここでアーティストや主催者を褒め称えるよりも、今後のイベントをより効果的かつ成功させるために、何により注意を払うべきかについて私の所見を述べたいと思う。

ホゥフナル(青い太陽)」によるアートキャンププロジェクトの主旨は、アーティストが地域の自然や人々と交流し、社会と個人の間の特定の関係について新しいアイディアやコンセプトで表現し、ユニークな作品を作ることにある。アートキャンププロジェクトで紹介された作品のほとんどは、後で完成させる新しい作品の始まり、原始的な想像力をかき立てることを目指していることが特徴である。そのため、アーティストは、その場で完成された作品を必ずしも紹介することがない。つまり、アートキャンププロジェクトの長所は、その空間に新しく生まれる作品の試行段階を作るということである。このようにアーティストが費やした時間と労力の結果、作品の主旨が出来上がり、そこから完全な作品が生まれるのである。

しかし、ドルノゴビ県で開催された「アートキャンプ」の作品には、この主旨が欠けているように感じた。ほとんどの作品は、その環境や場所とは異なる場所や時間で作られ、ただ展示物として置かれていた。サインシャンドからほど近い広大な平原に配置された作品は、澄んだ青空の下で綺麗に見えていた。

しかし、それらの作品を観て、十分かつ完成し切れていないコンセプトで急いで作られたような印象を受けた。それでもドルノゴビの40℃の暑さの砂嵐のなかで紹介された「ホゥフナル(青い太陽)」のアーティストは辛抱強く、その状況に適応して自分たちの可能性を最大限に活用し、努力した跡が見て取れる。

国際メディア芸術祭に参加した他のアーティストは、祭典の名のとおり、コンピュータープログラム、映像や音声技術を多用していた。それに対して現代美術の「ホゥフナル(青い太陽)」のアーティストの作品は、このイベントにおいてアートキャンププロジェクトの主旨からずれていたため、まるで祭りの添え物のように扱われていた。

元来「アートキャンプ」は、モンゴルの現代美術において重要な役割を果たしてきた。1992年以降、Yo.ダルハ−オチルとアーティスト仲間や弟子たちは、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス、ランド・アートなど多種多様な芸術をモンゴルに導入し、「アートキャンプ」、「ランド・アート」として知られている。モンゴルが社会主義から自由市場経済へと移行した後、現代美術の新しい分野やプロジェクトのイニシアチブを打ち出したこれらのアーティストは、国際的な舞台においてモンゴルを代表してきた。Yo.ダルハ−オチルいわく、「アートキャンプは、モンゴルの広大な平原と独特な自然構造、現代美術アーティストの『思考の自由』を象徴し、自然の工房として尊敬されているプロジェクトである。」という。

今日、この遺産を受け継いでいる「ホゥフナル(青い太陽)」は、モンゴルの現代美術を発展させてきたシニア世代と才能や作品で現代美術を充実させている新世代を繋ぐ組合である。

近年、モンゴルでは現代美術の社会に与える影響を阻害するある現象が見られる。それは、芸術とアーティストというより、それを一般に公開する主催者やマネージャーといった一握りの人々の活動や姿勢に関係している。

民主主義社会において、組合、連盟、協同組合、政府および非政府機関が存在する主な理由は、彼らの活動を国民が承認していることにある。芸術分野では、管理職ではなく、アーティストとしての個人が芸術を作り出す。これらの組織は、アーティストの労力や作品を一般に適切に公開し、アーティストを多方面から支援するという役割がある。しかし、モンゴルでは、実際にこれらの組織とその構成員の役割と義務が混同しているように見える。

今日、モンゴルの組織は、支援が必要なプロジェクトを見逃し、逆に自身の労力や才能を活かして何とか努力し、成功しているアーティストを組織の活動のマーケティングツールとして利用することが定着しつつある。モンゴルの「芸術界の役人」は、いかなる価値あるものも消費者の視線で見ており、それが集団となり、欠如した計画や不足した資金でアーティストを脅迫し、自分勝手なことを要求し、アーティストが貴重な作品を作る情熱や感覚をサポートするより、それを妨害し、壊している。

自分たちの名誉を高め、称賛されたいがために、支援したという名の下でアーティストに圧力を掛け、不十分で未完成な作品を作らせている。そして最終的に自分たちが作品を作ったかのように振る舞い、次のターゲットを狙うということがよく見られるようになった。

現代美術は、開催されるイベントやショーに宣伝広告の展示物として置かれ、人々に喜ばれる程度の価値しかないものなのでしょうか?モンゴルの芸術界の組織は、自分たちではなく、アーティストに焦点を当てて、彼らの生まれ持った才能を開花させ、長期的かつ完成した方針や予算でサポートすることができないだろうか?芸術イベントを開催する際には形ではなく、内容をより重視し、才能で作られた作品を一般に公開する際には自分たちではなく、アーティストに焦点を当てるべきではないだろうか?

イベントが終了して、閲覧者たちのスポットライトを主催者ではなく、社会が直面している問題を自分の世界観や労力で作品を通して表現し、新しいアイディアを提供している真の価値を作り出したアーティストに向けるべきではないだろうか?そういった時代がいつくるのだろうか?

こうした疑問は、国際メディア芸術祭のプログラムの例だけでなく、最近あちらこちらで開催されている大規模な文化イベントやショー、展示会を見ても思い起こされる。芸術文化界の組織による形だけの民主主義、支配的な態度、組織運営の古い慣習が、一部の組織管理者の個人的利益のためだけに働いている。この様なやり方を変える時がきたと思う。物事を変えるための希望や勇気が、モンゴルの社会において欠けている。このことがドルノゴビの「アートキャンプ」の全作品に現れている。

多くのアーティストが参加する大規模な文化イベントを、特にパンデミックの後に開催することは確かに容易なことではない。国際メディア芸術祭のキュレーターとして重要な役割を果たしたM.バトゾリグ氏と芸術委員会のチームは、この祭典に尽力したことは明らかだった。このイベントで紹介された現代美術のコンセプチュアルな彫刻、パフォーマンス、テクノロジーツールを使用して作られた作品は、見る者の心を刺激したと思う。まずはここから、この問題を真摯に考え、適切な解決策に辿り着き、私たちの文化に欠けている特定の変化を、現代美術を通じてもたらすことができることを期待している。

J.アリオナー、芸術評論家

2022年7月27日、UB POSTに掲載された記事

ウランバートル市

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