DEFACTO REVIEW (2018.05.20)
独占による危機
先週は航空・鉄道輸送に関する2つの出来事があった。1つは、韓国のウェブや新聞に「今日まで19年間ウランバートル‐ソウル間でMIATモンゴル航空と大韓航空が特別価格を設定し運航してきた」と言う報道が流れた。ソウル‐ウランバートル線とソウル‐香港線の所要時間は共に3時間10分、そして同じ量の燃料を消費する。しかしチケット代は、ピーク時で3倍、普段は2倍も高い価格に設定されている。これを見直すべきだと記載されていた。
この航空独占問題に関してはモンゴルでも度々話題に上がったが、どうにもならなかった。韓国で報道されたところでどうにかなるものでもない。価格が市場ではなく政府によって決められ、民間航空に対する税金も引き上げられ倒産に追い込まれた。しかし、MIATモンゴル航空は国の予算で「養われている」から、赤字であっても倒産することはない。特に市場を独占する国営企業はどんな時でも大きくなり、価格を調整して維持できる。
自由市場における独占とは、市場の過半数以上を1社もしくはグループ企業がシェアしていることをいう。
独占は、人々の需要に対する供給に関係なく価格を高く維持できるので、市場にとって良くない。価格競争で他のライバル企業が倒産した後に、1社で価格を引き上げてしまう。だから自由市場において独占に反対する声が多い。モンゴルでは航空や鉄道、電力、公共交通、エネルギー分野で独占がある。正当な独占とは、供給者が1社しかない時のみである。例えば、モンゴルの場合は電力供給者は1社しかない。
政府が独占について容認してきたことに対して、市場を開放して他社を参入させる他に選択肢がないと言われている。担当大臣及び首相は、航空市場の開放やウランバートル‐ソウル線、ウランバートル‐北京線の路線開放を春期国会で決めると話していた。これはモンゴルだけではなく、韓国の消費者も要求している。実現すればもちろん消費者にとっても有意義なことである。MIATモンゴル航空が赤字か黒字かは二の次である。
また、ダルハン第一駅で中国‐ロシア線の貨物列車が脱線する事故があった。事故の原因は枕木の腐食である。この脱線事故は数本の枕木が腐食していたという問題ではない。大問題である。これは、ウランバートル鉄道公社の上級職員の腐敗、ロシア・モンゴル両国の内閣のマネジメント能力が低下していることが原因である。鉄道事業の開放を図らない限り、両国内閣の適切な対応を待っているだけでは問題解決にはならない。
穀物を積んだ7、8台の車両が脱線した。もしこれが客車だったらどうするか?誰が乗客の安全を保障できるのか。貨物列車による輸送能力は年間2400万トンだ。2014年に初めてこの2400万トンに達したことがある。この輸送能力を増やす話が出ている。しかし、その前に2014年9月に何が起きたかを思い出す必要がある。モンゴル側から元道路輸送大臣A.ガンスフ、ロシア側からは株主代理人ウラジミールヤクニンの2人がウランバートル鉄道の改革、開発戦略協力について協議し署名した。当時は、プーチン大統領とモンゴル前大統領Ts.エルベグドルジが同席していた。この協議では既存の鉄道線の貨物輸送能力を年間1億トンにする。また、ウランバートル鉄道の電化を進め、サルヒト、エルデネトの鉄道線を北西に延伸してトゥヴァ共和国の首都クズルと繋ぎ、ロシアの鉱山製品をモンゴル経由で中国に運ぶ新しい路線を作る。モンゴルを経由する鉄道輸送量を増やすために、ボグドハーン新鉄道建設に協力することで合意していた。この合意は2014年に成立したが、今は既に2018年になっている。このまま合意事項が全く履行されない場合、誰が責任を負うのか。
公正競争・消費者保護庁は政府機関だから口を閉ざしたままだ。鉄道という大きな事業に関しては政府を恐れて何も言わないようだ。本来、政府というものは国民の下僕であるべきだ。国民のボスではない。
ロシアの他に鉄道の軌間が広い国はフィンランドとモンゴル。フィンランドは鉄道市場の開放を進めているようだ。客車サービス会社、鉄道修理サービス会社、鉄道固定資産会社、鉄道流動部品・機械設備会社の4つに分社化している。段階的に開放を進め8年間で独占を破るようだ。
7県を農業特区にする
内閣は地方自治体の提案を受け、7県63郡を「農業特区」にする決定を出した。農業特区の対象となった郡の殆どがアルハンガイ県、ヘンティ県、セレンゲ県、トゥブ県にある。農業特区とした主な目的は、自然環境保護、放牧地・農業地に関する規制、家畜による利益増加、農業地問題の調整をすることとなる。
18世紀イギリスでは、羊のウールを原料とした生地の製造が利益を生んでいたため羊の頭数が多くなり放牧地の問題が起こった。問題解決のために税金をかけたことで羊の放牧数を管理していた歴史がある。イングランドの法律家・思想家トマス・モアが「羊はおとなしい動物だが、イングランド人を食べつくしてしまう」という言葉を残している。これと同じようにモンゴルでは山羊が放牧地の草を食べつくしている。山羊が牧草地を食べつくして今では人間の食料まで食べようとしている。地方に家畜の頭数が多くなり、放牧地の砂漠化が深刻な問題となっている。セレンゲ県の人口はこの2、3年で3倍に増加した。セレンゲ県はもともと広大な農業特区である。そのため、農業と畜産業のどちらで生活していくかと多くの人が思案している。農作物が育ちやすい土地には農業を進めていくべきだと思う。しかし、畜産業は遊牧して営むもので、気候条件にこだわる必要がない。しかし農地に入って遊牧しているケースも見られるようだ。
今のところ遊牧民と農民の間で対立は起きていない。この土地問題を解決するために農業特区にすると発表しているが、その背景にある家畜問題を解決しなければならない。解決に当たり課税、地方自治体の管理機能、それぞれの放牧地における山羊の放牧数の管理、過剰放牧に税金を高く設定するなどで山羊の放牧を規制しなければならない。農業特区として発表した地域では畜産、放牧税を高くする必要がある。家畜を制限し、砂漠化を食い止め、地方に森林地を広げるために放牧税を徴収すべきだと思う。
保健医療従事者たちの闘争
保健医療分野の組合や団体が集まり、デモを行った。保健医療分野に従事する者たちの要求は、公正な勤務評価である。彼らの要求に増給という形で応じるのではなく、成果に応じて給与を計算するシステムを作る動きが浮上している。担当大臣はこの要求に対して全面的に応じたいと意思表明をした。
モンゴルは広い国土に対して人口が少ない事が問題でもある。フィンランドの国土面積はモンゴルの5分の1であり、人口は550万人。フィンランドは12の県に分かれていたが、つい最近6つの県に統廃合された。その理由は、医療サービスを提供する上で現実的な対策の一環である。フィンランドの議会は一院制なので、内閣が権限を持ち、地方は政府から与えられた権限を実施する形だ。フィンランドは地方行政の役割を増やした。モンゴルの保健医療分野における問題は、実施権が政府に集中し過ぎていることと関係している。過度な政府行政への権限集中は、その税額で現される。
一方、保健医療サービスの原資は国の予算と健康保険である。健康保険は言わば会社の資本である。健康保険が機能せず、集めた保険金の運用権を握る人たちが裕福になった。医療業務が進歩しないから、その資金を全く関係のない人たちに渡してきた。その全く関係ない人たちが裕福になった。今では供給者と消費者が1つになっている。自分の右手から左手へお金を渡している。
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ERDENEBILEGISM II – MONGOLIA’S NEXT CORRUPTION EPISODE
対人口比での政府の腐敗劇場の演目数でモンゴルは世界上位にある。正義と偽りの激しい流れがぶつかり合って嵐が起きる時、モンゴルを覆う黒い霧が散り始めた。今回の嵐で明るみに出ている出来事を時系列で追い、論理的に関連付け、詳細に調べ上げ、真実を追求する必要がある。さらにその原因を探り、進むべき道を切り開くためにモンゴル社会は試練の時を迎えている。
2つの銀行のオーナー
ウランバートルシティ銀行の法定資本増強というモンゴル銀行(中央銀行)からの要求を理由に個人的な資本を増やし、権力者と共謀して国民の財産を横領してきた者たちについて、私は3年前に「エルデネビレグリズム–モンゴルの民主主義の新たな現象」という記事を書いた。法定資本増強の必要性を主権者たる国民へ説明せず、M.エンフボルド、Ts.バトバヤル、G.ムンフバヤルなどの歴代市長たちはD.エルデネビレグにウランバートルシティ銀行の株式80%を譲渡した。そして残りの20%は2014年にE.バト・ウール元市長がD.エルデネビレグに譲渡した。
TDB銀行の民営化には歴代首相が関与している。2002年にTDB銀行の株式の76%をN.エンフバヤル首相(当時)がジェラルドメタルス社に1,230万ドルで売却した。2007年にはM.エンフボルド首相(当時)主導で、D.エルデネビレグが7,000万ドルでTDB銀行の株を買った。D.エルデネビレグは現在、自身の海外に登記されている企業4社を通じてTDB銀行の株式の93%を保有している。株式の残り5%をゴールドマン・サックスが、2%を50人の市民が保有している。今日、TDB銀行はモンゴルで2番目に大きな商業銀行である。また、モンゴルにある全商業銀行の資産の25%を占めている。
B.エンフボルド、Ts.バトバヤル、G.ムンフバヤルなど、ウランバートル歴代市長たちが寵愛した銀行がウランバートルシティ銀行とTDB銀行だ。ウランバートル市内の一等地にある公園の地権がこの2行に移されていた。G.ムンフバヤル元市長は、2012年の国政選挙で所属する党が敗れた後、自分の任期が終わる直前となるナーダム(モンゴルの夏祭りの祝日)期間中にウランバートルホテル前の公園、諜報庁前の公園、Yu.ツェデンバル広場、シレンデブ像がある学生広場などの所有権をウランバートルシティ銀行に移した。そして地下駐車場建設を許可するA/495市長令を出した。
TDB銀行は、ウランバートルの歴史ある「子どもの図書館」を取り壊し、ガラス張りの高層ビルを270億トゥグルグかけて建設した。このビルの11、12階を国営銀行であるモンゴル開発銀行に270億トゥグルグで、10階をMIK社に150億トゥグルグで売却した。D.エルデネビレグという人物は、政府機関から資金を調達し商いを行うことに関しては特殊な「才能」を持っているといえる。
D.エルデネビレグはまた、モンゴルの政権を握ってきた人民党と民主党の両方のスポンサーだと言われている。両党はスポンサーの名前や寄付額を非公開としている。ゆえに人民党と民主党はモンゴル政府の腐敗の巣窟となっている。
独占への道
たしかにTDB銀行は、モンゴル経済において重要な役割を果たしてきた。しかし、ベールに包まれたこの銀行のオーナーが所有するいくつかの会社が特別な役割を担ってきたことは、国会で明らかにされたエルデネト鉱業の株式49%の取得に関する資金調達概要図で明らかになった。

モンゴルカッパーコーポレーション社が「エルデネト鉱業」及び「モンゴルロスツェットメト社」の株式の49%をロシア側から取得する際に政府の資金を使ったことについて、L.オユン・エルデネ内閣官房長官は概要図で具体的に説明した。
D.エルデネビレグは、自身の会社QSC社を通じて株式取得に必要な4億20万米ドルのうち、30%を財務省、モンゴル銀行(中央銀行)、モンゴル開発銀行から調達した。残り70%をTDB銀行が大臣や市長が所有する企業4社に融資するという形で拠出し、最終的にモンゴルカッパーコーポレーション社に振り込ませた。
モンゴルカッパーコーポレーション社は、エルデネト鉱業の株式49%を取得した後、2016年の3~8月の間にエルデネト鉱業に前年度の配当金として1億2千万ドルを支払わせた。また、TDB銀行は受けた融資のうちモンゴル銀行(中央銀行)に7800万ドル、財務省に7200万ドルを返済している。
このように国庫(国民の財産)でエルデネト鉱業の株式49%を取得したため、国は事態を深刻に受け止め、株式の49%は政府に帰属するという国会の決定が出された。しかし、モンゴルカッパーコーポレーション社はそれを認めず、裁判となり2年が経っている。
政府は、TDB銀行が無担保で高額の融資を交付したことが銀行法違反と指摘しているが、その捜査令状を裁判所は発行していない。捜査機関はTDB銀行の取締役会長や頭取を逮捕したが、裁判所は法律に違反していないとして釈放した。
Ts.ニャムドルジ法務・内務大臣は、D.エルデネビレグが所有している2行は、今では37の鉱山ライセンスを、モンゴルロスツェットメト社はアスガト銀鉱山からボルウンドゥルまでの多数の県にまたがる地域に35の鉱山ライセンスを、全部で約70もの鉱山ライセンスを所有している。さらに、エルデネト、ダルハン、セレンゲ県に多数の鉱山ライセンスを所有していると発表した。
マフィアの制度
贈収賄事件に裁判所、司法機関が関わっている国ではマフィアの制度ができあがっている。国民の財産を違法に利用したモンゴルカッパーコーポレーション社に対する起訴をモンゴルの裁判所、検察庁は4度も無効にした。
モンゴルの裁判官は、政府と利害関係があると見える。モンゴルカッパーコーポレーション社はTDB銀行から7,500万ドルの融資を受け、その翌日には7,000万ドルをユナイテッドエナジー社に振り込んだ。ユナイテッドエナジー社の元社長であるD.ミシグの息子で裁判官のM.バトソーリは、政府の起訴を3回も無効にした。政府は賄賂対策庁に捜査を指示したが無駄だった。
また、政府は財源があるにも関わらず、エルデネト鉱業の株式49%の取得を拒否したことについて賄賂対策庁は何も捜査しなかった。
これらの腐敗問題を片付けるために、政府は国家安全保障委員会を開いた。関連法の改正と裁判官や検事を交代させるため、国会は昼夜を問わず審議を続けている。
裁判所、検察庁、賄賂対策庁の長官を交代させても、政府にはびこるマフィアや腐敗から脱することが可能なのだろうか?
2019年3月27日
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2020年はシベリア・モンゴル抑留から75周年にあたる。日本とモンゴルの国交樹立交渉や日本人抑留者の墓参活動に携わってこられた花田麿公元駐モンゴル大使(1999-2002年在任)に、抑留問題について伺った。
シベリア・モンゴル抑留とは?
1945年8月23日、ソ連は労働力獲得のため、中国東北地方や樺太や朝鮮に居留していた約60万人の日本人(軍人のみならず民間人や女性もいた)をシベリアへ連行した。捕虜約60万人のうち約1万3,000人余が途中でモンゴルに分け与えられ、極寒の環境下で建築などの強制労働を強いられて約1,700人弱が亡くなった。抑留者の眠る墓がウランバートル市やスフバートル市にある。
〜日本からモンゴルへの墓参団が初めて実現したのは1966年でした。両国の国交樹立より6年も前ですが、経緯を教えていただけますか?
まず日本とモンゴルの国交樹立について簡単にお話しします。それまであった出先での接触とは異なり、外務省同士が直接対面し、外交について最初の話し合いの場が持たれたのは1965年モンゴルにおいてでした。ウランバートルで開催された国連セミナーに出席するため、外務省から在タイ崎山書記官と花田中国課事務官(当時)の2人が派遣され、両省間で交渉する権限はなかったものの、外交関係樹立に関しての率直な意見交換がモンゴル語で行われました。
これを踏まえて翌年から外交関係樹立に向けた交渉が開始されました。正式に国交が樹立されたのは1972年で、1974年にウランバートルホテルで日本大使館の窓口が開設されました。
1961年にモンゴルが国連加盟したことにより、同国が国際的に認められつつあったので日本も、ということでしたが、またその一方で、戦後モンゴルに多数の日本人が抑留され、その墓地がモンゴル各地にあり、遺族の方がご存命のうちに墓参に行かれるような環境を何とか整えたいという考えが外務省にあったのです。1965年にウランバートルで国連セミナーが開催された際に人員を派遣した目的の一つに、墓地はどうなっているのかを知りたいということもありました。
日本人抑留者の墓参問題は厚生省(当時)が担当していましたが、私は逆に厚生省に働きかけをしたりしていましたので、当時の外務省上司に「墓守」とからかわれました。
1965年に崎山さんと私がモンゴルを訪れた時は両国に国交がなかったので、私たちはモンゴル滞在中常に行動を監視され、抑留者の墓へ行かせてもらえませんでした。しかしモンゴル外務省の方々に何度かお願いするうちにセミナー終了直前になって、ニャムジャブさんという女性の儀典官が、セミナー出席の木下首席とともに墓地へ案内してくれました。写真を撮ることもできて、現状を本省に報告できました。崎山さんと私は墓地の石を拾い、本省へ帰る私が日本へ持ち帰りました。
帰国後、その石を厚生省に届けたら大変驚かれ、金槌で小さく割って全国のご遺族へ送られました。当時はご遺骨の帰国がまだ叶っていなかったので、石のかけらでも喜ばれたのです。
石を配る光景がNHKで放送されると、国会議員の間で「墓参団を出すべきだ」という声が上がりました。そして元外務大臣で未帰還者同盟会長でもあった藤山愛一郎国会議員が、「墓参団派遣の許可とモンゴルで消息不明になっている27名の情報提供を求めるために、ツェデンバル首相へ直訴したい」と手紙を持参されました。その手紙を私はすぐモンゴル語に翻訳しましたが、モンゴル語のタイプライターがなく(もちろん当時はパソコンなどありませんでした)、たまたま東京外国語大学で非常勤講師もしていましたので、研究室でタイプして郵便局で投函しました。
在モスクワ日本大使館へ同首相のサイン入りの返事が届いた時はほっとしました。「モンゴルへ招待するので来てください」と書かれていたのです。翌年の1966年、厚生省主催で第1回墓参団が実現しました。
〜第1回墓参団にはどなたが参加されましたか?
墓参団団長を自民党の広報委員長をしておられた長谷川峻自民党議員が務められ、他に議員1名、抽選で選ばれたご遺族8名、外務省員は秋保東欧課首席事務官と私の2名、厚生省員2名、記者代表1名というメンバーでした。
国交のないモンゴルまでどう行けばよいかと東欧課の知人に相談したら、ハバロフスクへ日航機を飛ばすことになり、第1回目の試験飛行機がもうすぐ飛ぶという情報が入り、運良く我々も乗せてもらえることになりました。モスクワから来たロシア人パイロットも同乗して、羽田からハバロフスクへ日本人パイロットをガイドして飛びました。
ハバロフスクからはロシアの飛行機でイルクーツクへ移動しました。夜間に出発したのですが、ハバロフスクの滑走路に飛行機がたくさん並んでいて次々と飛び立つ様子が見事で、まるで不夜城のようでした。ソ連は随分発達していると驚いたものです。イルクーツクからウランバートルへはモンゴル航空で向かいました。バイカル湖上空では歓声が上がりました。
〜墓参と同時並行して、国交樹立の交渉を進められたのですか?
第1回墓参団の方々がモンゴルで市内観光へ出かけられている間、秋保首席と私はモンゴル外務省でモンゴル側の2名と共に外交関係樹立の交渉を行いました。朝2時間話して休憩となり、アルヒ(ウォッカ)が各自に50グラムずつ注がれました。「我々は仕事中に飲酒できない」と伝えると、モンゴル側の局長が「アジル ヒージル バイナ」と言う。

1965年に実現した墓参の光景
引き続き午後1時まで2時間交渉しました。昼食を一緒にとり、午後4時間話して、夕食を一緒にとるというスケジュールを2日間半続けたのですが、午前中に1本、午後に1本、食事中に各1本のアルヒ(ウォッカ)を飲んだのです。4人で4本、つまり1日1人1本ずつです。この言葉には「今仕事をしているじゃないの」と「今酒を飲んでいるじゃないの」という2つの意味がかけられています(笑)。
モンゴル側とは議論が白熱して、抑留者の話題もよく出しました。例えば「オペラ劇場を日本人捕虜に作らせたことは国際的な捕虜の取り扱いに違反している。あのようなひどい捕虜の使い方は言語道断だ!」というふうに。
劇場建設中に高所から落ちて亡くなった日本人捕虜がいて、彼を過酷な状況で働かせた意図を尋ねると、モンゴル側は「彼が建築の専門家だったから」とあっさり言われました。当方よりは「彼は東京大学建築学科の学生であり専門家ではない。建設労働中に事故で命を落としたなんて遺族にどう説明すればいいのか?」と返す。捕虜が受けた厳罰もひどいものと聞いていたので、彼らに対して行ったことについて説明してほしいなどと徹底して両者で議論しました。私の現役時代は、普段はモンゴルの方々とこの上なく仲が良いのですが、こと交渉ごととなると議論が白熱したものです。
〜第1回目の墓参団は1966年に実現しました。第2回目はいつ行われましたか?
1回目から少し時間があいて1971年頃だったと思います。1971年私は香港に在勤していました。墓参に関しては、ご自身も抑留経験者である春日行雄氏の私的墓参団も行われるようになりました。春日氏は厚生省に抑留関係の資料を提供されたり、大変熱心に墓参団のお世話を続けられました。厚生省の墓参団は2回で終わり、私が大使在任中の2001年に南野厚生労働副大臣がウランバートルに見え、全抑留者の慰霊碑の竣工式と追悼式を行い、公式には終了しました。
〜モンゴルに日本人抑留者の墓地はいくつありますか?
全部で16ヵ所あります。セメトリーとなっている墓所には、ウランバートルにダンバダルジャー墓地(810柱)とホジルボラン墓地(252柱)の2つがあります。ダンバダルジャー墓地にある遺骨は公式には厚生省が全て日本へ持ち帰ったという話になっていて今は慰霊碑があります。ホジルボランは軍事基地の中にあり一般人は入れませんが、私は2度入れてもらい数を数えました。ホジルボラン墓地は非常に整備されたもので、モンゴルの日本人墓地で一番だと思います。その他にスフバータルにも墓地があります(198柱)。残りの13ヵ所は一般の墓地で、ユルー(98柱)、ズーンハラー(44柱)などです。
<筆注:上記の柱数はモンゴル側の資料による。ただし、日本側に異論あり。>

初の墓参団がモンゴルに到着したとき(左)と、墓地で長谷川団長が墓碑に水をかけているところ(右)
〜モンゴルへ連行された日本人抑留者は、現地でどのくらい亡くなられたのですか?
モンゴル側は1,621人が死亡したと主張していますが諸説あり、モンゴルが作成した名簿に載っていない方もいます。私が2回目の現地大使館勤務中に、モンゴル側担当者から「あなたが良い態度でいれば死亡者の人数を増やしてあげよう」と言われ、週末になると私の妻子も含め全館員とその家族を動員して大使館員と家族のみで墓地の整備工事をしました。しかし結局、死亡者の数は増やしてもらえませんでした。
これはあくまで私の見解ですが、厚生省の調査をもとにすると、終戦時のモンゴルには日本人の軍人・軍属が1万3,847人、さらに若干の戦犯が抑留されていました(モンゴル側発表の数字は1万2,318人)。このうち死亡したのは1,684人です(モンゴル側発表の数字は1,621人)。
〜最後に、この問題と長年向き合ってこられた花田さんからメッセージをお願いします。
抑留の問題は今も終わっていないと思います。まだウランバートルで待っている人がいるのではないでしょうか。
抑留のやり方自体も、人道的ではなかったといわれ、その意味で問題があると思います。そもそも戦争が終わった後、何の協定とも関係なく、ソ連が労働力欲しさで勝手に日本人を連れて行ったわけです。「ダモイトーキョー(東京へ帰る)」と騙して彼らを汽車に乗せ、その汽車が海の方ではなく北へ走って行ったという有名な話がありますね。日本人抑留者約60万人の中から約1万3千人余が途中でモンゴルに分け与えられ、抑留自体も問題ですが、モンゴルまでの連行のされ方も非人道的だったと聞いています。
さらに抑留中の扱い方もひどいものだったと帰国者の手記に記されているようです。厳冬期のマイナス30度以下のモンゴル人でも働かないような環境で、川など冷たい場所で働かされたとか。抑留地にパンを投げ入れてくれた人がいたという暖かい話もありますが、ごく一部だったのでは。道路行進中に道に落ちているものがパンに見えたと言っているのですから。ほとんどは冷たい目を向けられながら強制労働をしたそうです。結婚もしていない成人直後の若い青年たちが犬以下の扱いで働かされ、死んでいったと聞いています。統計では世界一酷いと言われているソ連よりも、モンゴルにいた捕虜のほうが死亡率は高かったようです。
外交関係樹立の際、日本側はそのことを不問には付さずモンゴル側と議論しました。しかし外交関係樹立の条件にはなりませんでした。ですから樹立後に解決しないといけない問題として現在も残っていることは記憶にとどめておきたいです。
戦地に出した国民を帰国させる義務が国家にはあります。それは命を落とした兵士のご遺骨についても同じです。建前ではモンゴルの抑留者のご遺骨の収集は完了したことになっていますが、実際はまだ、各地の墓地に残されている方々が現実にいると認識しています。私もその後、ズーンハラーの墓地をお参りしました。
日本の過去の戦争処理において、日本はかつて諸外国で悪い行いをしたことを清算する必要があるのと同時に、日本が被害を受けたことについても対応していかなければなりません。後者について具体的には、ソ連が旧満州にいた日本人に対して働いた乱暴と抑留の問題、アメリカによる東京など都市への大空襲のジェノサイド爆撃、広島・長崎への原爆投下による大量虐殺です。なお原爆投下には、非軍事地区への爆撃による大量殺人と、核を人類に使用したという2つの罪があり、これらは人類全体で深く考える問題だと思います。
モンゴルの抑留については、捕虜の扱い方は1949年のジュネーブ条約締結以前は国際法で共通の認識がありましたが、ソ連もモンゴルもそれに沿った正しい扱いをしませんでした。そのことについては一般人であってももっと知るべきですし、モンゴル人の歴史家ももっとこの問題に向き合って、内部からなぜ日本人捕虜がモンゴルに抑留されたのか、それは誰のどのような思惑から決定されたのか、未公表の資料がないかなど、この問題の解明に努めていただきたいと思います。それは未来に起こりうることのために知る必要があるのです。そして日本人もノモンハン事件(ハルハ河戦争)を行ったことについて、これまでの出版物でみると被害者のように書かれているものもあり、もっと田中克彦先生などのように客観的に向き合う必要があると思います。
そうして色々な問題が互いの共通理解に達したとき、初めて真の友好が訪れるのだと思います。モンゴルと日本は友好関係だと言われていますが、根深いところにスターリン主義も関係してくる問題は残っており、問題を避けたままで、簡単に崩れることのない真の友好を築くのは難しいので、なんとか今の非常にいい関係が崩れないうちに対処しないといけないと私は思います。
フリーランスライター 大西夏奈子 Kanako Onishi
2020年12月
JOURNALISM IS AT RISK – EVEN IN EUROPE
オーストリアのウィーン市庁舎で開かれた「ヨーロッパ出版会議」(European Publishing Congress)で、ドイツの大手メディアグループHubert Burda Mediaの会長フィリップ・ウェルテ(Philipp Welte)は「ヨーロッパのジャーナリズムは脅威にさらされ、メディアは危機的状況に陥っている」と言った。年間売上は20億ドル、従業員1万人を擁し、各50万人の読者を持つ有名な雑誌(Focus、Bunte、Chip、Playboy)を出版している最大手メディアグループの会長がこう言っているならば、それは事実だろう。
オーストリアのウィーンで過去19回開催されてきた「ヨーロッパ新聞会議」が、今年からは日刊紙の他に雑誌、ウェブサイトを手掛けているメディア企業も参加し、名前を「ヨーロッパ出版会議」に変更し開催された。この会議に世界35ヵ国500の報道機関の管理職、編集者、記者、政府機関の代表者が参加した。2020年の訪れを目の前にし、ヨーロッパのみならず他の大陸でも日刊紙、雑誌、ウェブサイト無しに今日の報道は想像できない。伝統的なメディアと革新的なデジタル技術、その中でソーシャルネットワーク(フェイスブック、ツイッターなど)が中心となり、これら無しには世の中は動かなくなった。
ジャーナリズムが直面している問題を協議し、意見交換し、経験を共有するこの会議に、私はモンゴルを代表して出席した。ここで会議の主な話題を読者の皆さんにお届けしたい。
民主主義に迫る危機
世界中で伝統的な報道機関は危機に陥り、真っ当な報道活動が行われる機会はより縮小している。彼らの収益は激減し、ジャーナリスト、記者、カメラマン、編集者などの給与水準は低下しつつある。国民が選んだ政治家や官僚たちにまつわる数えきれないほどの情報を伝達すべきジャーナリズム、ジャーナリストたちの存在が危機に陥っている。
一方、ヨーロッパの極右政党、ポピュリズムの政治家たちは、ジャーナリストという職業を最もリスクが高い専門職に変えてしまった。真実を伝えるという価値が、命を天秤にかけるようになった。今日、トルコで13万人の公務員が解雇され、160人のジャーナリストが刑務所に収監され、190の報道機関が閉鎖された。2018年には世界中で182人、今年第1四半期に12人のジャーナリストが殺害された。現在、328人のジャーナリストが刑務所に収監されている。
他方、ソーシャルメディアはフェイクニュースで溢れ、国民は真実と虚偽の区別がつかなくなってしまった。他人への中傷、名誉毀損、政治的な偽情報、過剰な宣伝広告は、それを専門的に行うスペシャリストによって実行される。偽情報の流布は世界中で常態化している。フェイクニュースが拡大するにつれ、ソーシャルネットワークにおける大手企業、アメリカのフェイスブック、グーグルなどの広告料収入は圧倒的に増加し、伝統的な報道機関の収入は減少の一途である。2018年にドイツで発行されている2,000もの雑誌の広告料収入は、すべて合わせて9億8千万ユーロだった。しかし、フェイスブック一社の広告料収入は12億8千万ユーロ、グーグルはそれより遥かに多い。
言論の自由を初めて憲法に謳った国であるアメリカでも、大統領がジャーナリストたちを「フェイクニュース」と言うようになった。真実を伝える機会が少なくなるにつれ、民主主義が危険な状況に陥っている。責務を果たそうとするジャーナリストがいなくなるにつれ、出処を確認できない、誰も責任を負わない「出典」が多発し、フェイクニュースはより拡大している。ソーシャルネットワークは従来の伝統的報道機関を駆逐している。ドイツでは、新聞媒体は2033年には終わりを迎えると言われているほどだ。
私たちが育ててきた言論の自由、政治家を選ぶ自由な選挙権、彼らを監視する参政権など民主主義の貴重な礎が破壊されている。そのため、「私たちは報道の自由を取り戻すために闘わなければならない」とヨーロッパの報道機関は話している。
国民が虚偽のニュースと真実のニュースを区別できるように教育を行い、専門のジャーナリストが報道内容や責任において、ソーシャルネットワーク上の情報と差別化を図る必要がある。
伝統的な報道機関の電子化への移行
長い歴史をもつオランダの新聞社フィナンシエラ・ダフブラット紙が、現代の新しい環境や状況に上手く適応した事例はとても興味深いものだった。世界で初めて株式会社が作られたこの国で、1796年に第1号を発行したフィナンシエラ・ダフブラット紙は、創刊から215年を経た2011年に紙面をベルリナー判(訳注:国際的な新聞版型の一つ、サイズは315mm×470mm)にし、オンラインでも配信した。オンライン版と印刷版を同じ内容で配信するようにした。これを受け、2006年に52,000人だった購読者数は現在92,000人に増加している。オンラインと印刷の両方で配信することで、購読者はいつでも、どこでも購読できるようになった。フィナンシエラ・ダフブラット紙のジャーナリストたちは、自分の原稿を直接オンラインで投稿するようになったと主任デザイナーのハンス・スポエルマンが紹介した。
また、従来の紙の媒体からオンライン媒体に移行しつつも、2つの媒体を上手く両立させ、収益を伸ばしている雑誌がイギリスのエコノミスト紙である。エコノミスト誌副編集長マリナ・ガーデンは、購読者が消費者に変わり、彼らを維持するために電子化へと移行した方法を発表した。私たちの雑誌は購読ではなく、閲覧形式に(viewspaper、not newspaper)なったという。私自身、モンゴルでエコノミスト誌を紙媒体で読む他にスマートフォンで読んだり、観たり、聞いたりしているため、彼らの戦略は何を目指しているのか非常に興味深い。
伝統的な報道機関の電子化への移行が成功するための第一歩として、オーストリアが提案した、ジャーナリストの強い責任感と豊富な経験から生み出される原稿の知的財産を保護する法案を欧州連合が可決し、採択したことが大きい。この法案が可決、採択されたことについて、この会議の開会式で挨拶を行ったオーストリア共和国首相セバスティアン・クルツ(33)がこの法の意義を強調していた。彼はまた、「報道機関と政治家は国民に正確な情報を提供するために共同で責任を負うようにならなければならない」と言った。
クルツ首相は参加者に向け、会議で協議する他に観光も楽しんでほしいと声をかけた。ウィーンは、この会議を同市のシンボルでもある1872年に建てられた美しい宮殿(Vienna City Hall)で毎年開催してきた。
この混沌とした時代で、真実を言うことは、より価値を持つようになっている。
2019年5月22日
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