ベネズエラの“勝利”

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VIVA VENEZUELA

ベネズエラ万歳!(ベネズエラは勝利する)というスローガンを繰り返し、ウゴ・チャベスが大統領選で4度目の勝利を果たした。しかし、この勝利は6年後、ベネズエラに貧困と失業、そして飢餓や暴力、犯罪、失望、移民という問題を引き起こすこととなった。今日、ベネズエラの人口3,200万人、そのうち500万人が国を逃れ、隣国コロンビアへ難民として流出している(エコノミスト誌、2018年9月号)。

ベネズエラ経済は2014年以降、それまでの2分の1にまで縮小した。これは非戦時下の国において過去最高の下げ幅となった。輸出の90%を原油が占め、政府が発行する国債額は輸出額の5倍にものぼる。2017年にハイパー・インフレが始まり、この1年で物価が120万倍に上昇したと国民議会議長が発表した。そして政府は通貨暴落について統計情報を公表しなくなった。

国民の購買力の低下は消費意欲を急速に萎ませ、多くの民間企業が立ち行かなくなり倒産している。ウゴ・チャベスが大統領になるまでは様々なモノが国内で生産されていた。しかし今は海外から輸入する方が安価になったため、国内では生産されなくなり、結果、商品不足に陥っている。病院には医薬品、注射器が不足し、商店ではごく少量の食料品が社会保障番号で配給されるようになった。ベネズエラ国民は飢餓状態にある。国民の平均体重は2015年に比べ8.5キロも減っている(エコノミスト誌、2017年4月号)。

ベネズエラは原油埋蔵量で世界一を誇り、50年前にはラテンアメリカ諸国の手本となる民主主義体制をもち、イギリスに比べても遜色ない裕福な国だった。この国はどうして破綻したのか?

背景:ウゴ・チャベスのベネズエラ、独特な社会主義

士官学校を卒業し、舌鋒鋭いウゴ・チャベスは1992年にクーデターを企てたものの、失敗し投獄された。釈放後、チャベスはラテンアメリカ諸国を旅して回った。その時、キューバのフィデル・カストロと親交を深めるようになった。その後、「第五共和国運動」という政党を結成し、1998年に大統領選に立候補した。貧困層の多くは、体格が良く、軍服を着てキレのよいスピーチをしていたウゴ・チャベスをテレビで初めて見て、支持するようになった。

チャベスは大統領選で、社会・経済的改革を革命とし、熱心な言葉で公約を掲げた。これが貧富の差が激しいこの国で、貧困層、労働者階級からの幅広い支持を受け、54%の得票率で大統領選に勝利した。チャベスは大統領就任後に議会を新たに編成し、自分の側にいる人たちで固めた。

大統領となったチャベスは憲法改正を行い、大統領の任期をそれまでの5年から6年へと延長し、2回までだった再選を無期限とした。最高裁判所の「腐敗に侵された」裁判官を自分に都合のよい法律家で揃えたことにより、立法権、司法権を握ることとなった。

チャベス大統領時代に原油価格は1バレル100ドルに達し、確定埋蔵量が世界一を誇る原油国の政府財政は、魔法がかけられたように溢れかえった。

チャベス大統領は公約どおり、キューバを手本としてベネズエラに独特の社会主義を確立させる活動を始めた。社会福祉を無償にし、国民に食料や現金を支給するようになった。全国15,726ヵ所に食料配給所を設立し、産業の多様化を急進させる(Radicalization)という理由で原油、銀行、セメント、保健、食糧、その他分野の民間企業を強制的に国有化にした。エクソンモービルやコノコフィリップスなど、外国企業は撤退した。

しかし、原油価格が下落し、それまでに蓄財してこなかったベネズエラ政府は、福祉政策を止めないため国債を発行しはじめた。また、通貨管理(Currency control)や厳しい為替レートを規定したことを受け、闇市場が誕生し、ベネズエラ通貨の価値は下落した。

チャベス大統領は自身が持つテレビ番組で何時間も演説をし、彼の思想や活動に反対する者は誰であれ拘束した。一部の大臣や長官をテレビ番組放送中に解任したりもした。

2013年、キューバでガンの治療を受けていたチャベス大統領は死去した。彼の遺言に則り、チャベスの腹心だった副大統領のニコラス・マドゥーロが暫定大統領に就任した。

流れ:経済危機と人道危機

高校を中退し、バスの運転手だったマドゥーロは、暫定大統領就任2ヵ月後に行われた大統領選で1%という僅差でライバルを破り、大統領に就任した。彼にはチャベスのようなカリスマ性も指導力もなく、さらに原油価格は1バレル40ドルに下落し、国の経済は困難を極めた。政府が腐敗に侵され、財産を押収された民間企業の将来は見えなくなった。

公務員の給与を支払うために紙幣を刷り続けたことで通貨が暴落し、貧困は拡大した。2014年には政府の政策を批判し、国民は全国で毎日デモをするようになった。デモ隊と軍・警察の間で激しい衝突が起こり、43人が死亡した。2015年の選挙で国民議会を野党が多数を占め、2016年にマドゥーロ大統領を罷免する国民投票の実施を議決した。

それに対し、チャベス大統領時代から最高裁判所、選挙管理委員会、軍部を管理していたマドゥーロ大統領は、最高裁判所に国民議会の立法権は無効と宣言させ、給与の支払いを停止させた。そして制憲義会(The Constituent Assembly of Venezuela)に立法権を移し、2017年6月に新たに選挙を実施した。その大多数はマドゥーロ派だった。2018年5月に投票率27%の選挙でマドゥーロは大統領に再選された。

西欧諸国、米州機構はこの2つの選挙を否認し、一部の国ではマドゥーロ大統領と閣僚のビザを無効にして彼らの資産を凍結した。

国の状況が悪化し、犯罪、窃盗、暴動が多発した。2012年に10万人に73人の殺人発生率は、2年後には82人になった(非政府組織ベネズエラ社会的紛争観測所)。食糧不足が深刻化し、国民は飢餓により国を脱出している。ベネズエラの難民脱出規模はシリアより大きい。ベネズエラは経済的にも人道的にも危機に陥っている。これについてマドゥーロ大統領は「これは危機ではなく、アメリカなど資本主義国の仕業で、ベネズエラに対立して始められた“経済戦争”だ」と発言した。

この自己防衛のために武装した独裁者の体制下では、国民が祖国に残るか?離れるか?飢餓に苦しむか?死にゆくかは全く関係なくなっている。

これは、1つの資源への過度な依存、不透明な公共ガバナンス、腐敗の侵食、政府の拡大が深刻化し、市場経済を否定したベネズエラの「勝利」のストーリーである。

国民が政府を担う政治家を選ぶ他に持つ「政府の活動を監視する権利」という民主主義の基本原則が実現するまで、あと何年かかるのだろうか?

2019年1月9日

日本語版制作:Mongol Izumi Garden LLC http//translate.mig.asia

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