「モンゴル抑留問題は未解決」〜花田麿公元大使に聞く

Kanako Onishi
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2020年はシベリア・モンゴル抑留から75周年にあたる。日本とモンゴルの国交樹立交渉や日本人抑留者の墓参活動に携わってこられた花田麿公元駐モンゴル大使(1999-2002年在任)に、抑留問題について伺った。

シベリア・モンゴル抑留とは?

1945年8月23日、ソ連は労働力獲得のため、中国東北地方や樺太や朝鮮に居留していた約60万人の日本人(軍人のみならず民間人や女性もいた)をシベリアへ連行した。捕虜約60万人のうち約1万3,000人余が途中でモンゴルに分け与えられ、極寒の環境下で建築などの強制労働を強いられて約1,700人弱が亡くなった。抑留者の眠る墓がウランバートル市やスフバートル市にある。

〜日本からモンゴルへの墓参団が初めて実現したのは1966年でした。両国の国交樹立より6年も前ですが、経緯を教えていただけますか?

まず日本とモンゴルの国交樹立について簡単にお話しします。それまであった出先での接触とは異なり、外務省同士が直接対面し、外交について最初の話し合いの場が持たれたのは1965年モンゴルにおいてでした。ウランバートルで開催された国連セミナーに出席するため、外務省から在タイ崎山書記官と花田中国課事務官(当時)の2人が派遣され、両省間で交渉する権限はなかったものの、外交関係樹立に関しての率直な意見交換がモンゴル語で行われました。

これを踏まえて翌年から外交関係樹立に向けた交渉が開始されました。正式に国交が樹立されたのは1972年で、1974年にウランバートルホテルで日本大使館の窓口が開設されました。

1961年にモンゴルが国連加盟したことにより、同国が国際的に認められつつあったので日本も、ということでしたが、またその一方で、戦後モンゴルに多数の日本人が抑留され、その墓地がモンゴル各地にあり、遺族の方がご存命のうちに墓参に行かれるような環境を何とか整えたいという考えが外務省にあったのです。1965年にウランバートルで国連セミナーが開催された際に人員を派遣した目的の一つに、墓地はどうなっているのかを知りたいということもありました。

日本人抑留者の墓参問題は厚生省(当時)が担当していましたが、私は逆に厚生省に働きかけをしたりしていましたので、当時の外務省上司に「墓守」とからかわれました。

1965年に崎山さんと私がモンゴルを訪れた時は両国に国交がなかったので、私たちはモンゴル滞在中常に行動を監視され、抑留者の墓へ行かせてもらえませんでした。しかしモンゴル外務省の方々に何度かお願いするうちにセミナー終了直前になって、ニャムジャブさんという女性の儀典官が、セミナー出席の木下首席とともに墓地へ案内してくれました。写真を撮ることもできて、現状を本省に報告できました。崎山さんと私は墓地の石を拾い、本省へ帰る私が日本へ持ち帰りました。

帰国後、その石を厚生省に届けたら大変驚かれ、金槌で小さく割って全国のご遺族へ送られました。当時はご遺骨の帰国がまだ叶っていなかったので、石のかけらでも喜ばれたのです。

石を配る光景がNHKで放送されると、国会議員の間で「墓参団を出すべきだ」という声が上がりました。そして元外務大臣で未帰還者同盟会長でもあった藤山愛一郎国会議員が、「墓参団派遣の許可とモンゴルで消息不明になっている27名の情報提供を求めるために、ツェデンバル首相へ直訴したい」と手紙を持参されました。その手紙を私はすぐモンゴル語に翻訳しましたが、モンゴル語のタイプライターがなく(もちろん当時はパソコンなどありませんでした)、たまたま東京外国語大学で非常勤講師もしていましたので、研究室でタイプして郵便局で投函しました。

在モスクワ日本大使館へ同首相のサイン入りの返事が届いた時はほっとしました。「モンゴルへ招待するので来てください」と書かれていたのです。翌年の1966年、厚生省主催で第1回墓参団が実現しました。

〜第1回墓参団にはどなたが参加されましたか?

墓参団団長を自民党の広報委員長をしておられた長谷川峻自民党議員が務められ、他に議員1名、抽選で選ばれたご遺族8名、外務省員は秋保東欧課首席事務官と私の2名、厚生省員2名、記者代表1名というメンバーでした。

国交のないモンゴルまでどう行けばよいかと東欧課の知人に相談したら、ハバロフスクへ日航機を飛ばすことになり、第1回目の試験飛行機がもうすぐ飛ぶという情報が入り、運良く我々も乗せてもらえることになりました。モスクワから来たロシア人パイロットも同乗して、羽田からハバロフスクへ日本人パイロットをガイドして飛びました。

ハバロフスクからはロシアの飛行機でイルクーツクへ移動しました。夜間に出発したのですが、ハバロフスクの滑走路に飛行機がたくさん並んでいて次々と飛び立つ様子が見事で、まるで不夜城のようでした。ソ連は随分発達していると驚いたものです。イルクーツクからウランバートルへはモンゴル航空で向かいました。バイカル湖上空では歓声が上がりました。

〜墓参と同時並行して、国交樹立の交渉を進められたのですか?

第1回墓参団の方々がモンゴルで市内観光へ出かけられている間、秋保首席と私はモンゴル外務省でモンゴル側の2名と共に外交関係樹立の交渉を行いました。朝2時間話して休憩となり、アルヒ(ウォッカ)が各自に50グラムずつ注がれました。「我々は仕事中に飲酒できない」と伝えると、モンゴル側の局長が「アジル ヒージル バイナ」と言う。

1965年に実現した墓参の光景

引き続き午後1時まで2時間交渉しました。昼食を一緒にとり、午後4時間話して、夕食を一緒にとるというスケジュールを2日間半続けたのですが、午前中に1本、午後に1本、食事中に各1本のアルヒ(ウォッカ)を飲んだのです。4人で4本、つまり1日1人1本ずつです。この言葉には「今仕事をしているじゃないの」と「今酒を飲んでいるじゃないの」という2つの意味がかけられています(笑)。

モンゴル側とは議論が白熱して、抑留者の話題もよく出しました。例えば「オペラ劇場を日本人捕虜に作らせたことは国際的な捕虜の取り扱いに違反している。あのようなひどい捕虜の使い方は言語道断だ!」というふうに。

劇場建設中に高所から落ちて亡くなった日本人捕虜がいて、彼を過酷な状況で働かせた意図を尋ねると、モンゴル側は「彼が建築の専門家だったから」とあっさり言われました。当方よりは「彼は東京大学建築学科の学生であり専門家ではない。建設労働中に事故で命を落としたなんて遺族にどう説明すればいいのか?」と返す。捕虜が受けた厳罰もひどいものと聞いていたので、彼らに対して行ったことについて説明してほしいなどと徹底して両者で議論しました。私の現役時代は、普段はモンゴルの方々とこの上なく仲が良いのですが、こと交渉ごととなると議論が白熱したものです。

〜第1回目の墓参団は1966年に実現しました。第2回目はいつ行われましたか?

1回目から少し時間があいて1971年頃だったと思います。1971年私は香港に在勤していました。墓参に関しては、ご自身も抑留経験者である春日行雄氏の私的墓参団も行われるようになりました。春日氏は厚生省に抑留関係の資料を提供されたり、大変熱心に墓参団のお世話を続けられました。厚生省の墓参団は2回で終わり、私が大使在任中の2001年に南野厚生労働副大臣がウランバートルに見え、全抑留者の慰霊碑の竣工式と追悼式を行い、公式には終了しました。

〜モンゴルに日本人抑留者の墓地はいくつありますか?

全部で16ヵ所あります。セメトリーとなっている墓所には、ウランバートルにダンバダルジャー墓地(810柱)とホジルボラン墓地(252柱)の2つがあります。ダンバダルジャー墓地にある遺骨は公式には厚生省が全て日本へ持ち帰ったという話になっていて今は慰霊碑があります。ホジルボランは軍事基地の中にあり一般人は入れませんが、私は2度入れてもらい数を数えました。ホジルボラン墓地は非常に整備されたもので、モンゴルの日本人墓地で一番だと思います。その他にスフバータルにも墓地があります(198柱)。残りの13ヵ所は一般の墓地で、ユルー(98柱)、ズーンハラー(44柱)などです。

<筆注:上記の柱数はモンゴル側の資料による。ただし、日本側に異論あり。>

初の墓参団がモンゴルに到着したとき(左)と、墓地で長谷川団長が墓碑に水をかけているところ(右)

〜モンゴルへ連行された日本人抑留者は、現地でどのくらい亡くなられたのですか?

モンゴル側は1,621人が死亡したと主張していますが諸説あり、モンゴルが作成した名簿に載っていない方もいます。私が2回目の現地大使館勤務中に、モンゴル側担当者から「あなたが良い態度でいれば死亡者の人数を増やしてあげよう」と言われ、週末になると私の妻子も含め全館員とその家族を動員して大使館員と家族のみで墓地の整備工事をしました。しかし結局、死亡者の数は増やしてもらえませんでした。

これはあくまで私の見解ですが、厚生省の調査をもとにすると、終戦時のモンゴルには日本人の軍人・軍属が1万3,847人、さらに若干の戦犯が抑留されていました(モンゴル側発表の数字は1万2,318人)。このうち死亡したのは1,684人です(モンゴル側発表の数字は1,621人)。

〜最後に、この問題と長年向き合ってこられた花田さんからメッセージをお願いします。

抑留の問題は今も終わっていないと思います。まだウランバートルで待っている人がいるのではないでしょうか。

抑留のやり方自体も、人道的ではなかったといわれ、その意味で問題があると思います。そもそも戦争が終わった後、何の協定とも関係なく、ソ連が労働力欲しさで勝手に日本人を連れて行ったわけです。「ダモイトーキョー(東京へ帰る)」と騙して彼らを汽車に乗せ、その汽車が海の方ではなく北へ走って行ったという有名な話がありますね。日本人抑留者約60万人の中から約1万3千人余が途中でモンゴルに分け与えられ、抑留自体も問題ですが、モンゴルまでの連行のされ方も非人道的だったと聞いています。

さらに抑留中の扱い方もひどいものだったと帰国者の手記に記されているようです。厳冬期のマイナス30度以下のモンゴル人でも働かないような環境で、川など冷たい場所で働かされたとか。抑留地にパンを投げ入れてくれた人がいたという暖かい話もありますが、ごく一部だったのでは。道路行進中に道に落ちているものがパンに見えたと言っているのですから。ほとんどは冷たい目を向けられながら強制労働をしたそうです。結婚もしていない成人直後の若い青年たちが犬以下の扱いで働かされ、死んでいったと聞いています。統計では世界一酷いと言われているソ連よりも、モンゴルにいた捕虜のほうが死亡率は高かったようです。

外交関係樹立の際、日本側はそのことを不問には付さずモンゴル側と議論しました。しかし外交関係樹立の条件にはなりませんでした。ですから樹立後に解決しないといけない問題として現在も残っていることは記憶にとどめておきたいです。

戦地に出した国民を帰国させる義務が国家にはあります。それは命を落とした兵士のご遺骨についても同じです。建前ではモンゴルの抑留者のご遺骨の収集は完了したことになっていますが、実際はまだ、各地の墓地に残されている方々が現実にいると認識しています。私もその後、ズーンハラーの墓地をお参りしました。

日本の過去の戦争処理において、日本はかつて諸外国で悪い行いをしたことを清算する必要があるのと同時に、日本が被害を受けたことについても対応していかなければなりません。後者について具体的には、ソ連が旧満州にいた日本人に対して働いた乱暴と抑留の問題、アメリカによる東京など都市への大空襲のジェノサイド爆撃、広島・長崎への原爆投下による大量虐殺です。なお原爆投下には、非軍事地区への爆撃による大量殺人と、核を人類に使用したという2つの罪があり、これらは人類全体で深く考える問題だと思います。

モンゴルの抑留については、捕虜の扱い方は1949年のジュネーブ条約締結以前は国際法で共通の認識がありましたが、ソ連もモンゴルもそれに沿った正しい扱いをしませんでした。そのことについては一般人であってももっと知るべきですし、モンゴル人の歴史家ももっとこの問題に向き合って、内部からなぜ日本人捕虜がモンゴルに抑留されたのか、それは誰のどのような思惑から決定されたのか、未公表の資料がないかなど、この問題の解明に努めていただきたいと思います。それは未来に起こりうることのために知る必要があるのです。そして日本人もノモンハン事件(ハルハ河戦争)を行ったことについて、これまでの出版物でみると被害者のように書かれているものもあり、もっと田中克彦先生などのように客観的に向き合う必要があると思います。

そうして色々な問題が互いの共通理解に達したとき、初めて真の友好が訪れるのだと思います。モンゴルと日本は友好関係だと言われていますが、根深いところにスターリン主義も関係してくる問題は残っており、問題を避けたままで、簡単に崩れることのない真の友好を築くのは難しいので、なんとか今の非常にいい関係が崩れないうちに対処しないといけないと私は思います。

フリーランスライター 大西夏奈子 Kanako Onishi

2020年12月

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