NOTES FROM ULAN-UDE
ロシアとモンゴルのビザ発給要件の緩和により両国民が2014年9月からビザなしで相互に入国できるようになった。数千人が相互の国を訪問し、観光・貿易が活発化している。ロシアと接する3485kmの国境線の約3分の1をロシア連邦ブリヤート共和国が占めている。ロシアは83の連邦構成主体から成るが、そのうち22の主体で独自の憲法、政府、言語をもつことができる。しかし、連邦から独立国となる権利はない。全て共和国を称する。
ブリヤート共和国の国土はモンゴルの4分の1、人口は3分の1で100万人にも満たない。人口の25%がブリヤート人、残りの殆どがロシア人、他の少数民族で構成される。ブリヤート人の10%がブリヤート語を話すが、公用語はロシア語である。
ブリヤート共和国首長アレクセイ・ツィデノフの内閣は産業の多様化と外国からの投資を呼び込むため、積極的に活動している。特に隣国であるモンゴルとの協力を急速に拡大させている。2週間前に首長アレクセイ・ツィデノフがモンゴルを訪問し、政府関係者や企業代表者と面会した。それから彼はデファクト番組にも出演した。(www.jargaldefacto.com/article/aleksei-sambuewich-tsiidenow)
ブリヤート共和国におけるビジネス
ブリヤート共和国政府は2011年に「地域開発基金」を設立し、自国を「ロシアのアジアへの扉」と名付け、外国からの投資を誘致する活動を開始した。バイカル湖の東岸に沿って観光開発や近代的なインフラ設備を整備する明確な計画を打ち出し、一部のインフラ整備を開始している。また、ウラン・ウデの空港は国際航空における5つの自由となる運輸権を獲得している。
ロシア・モンゴル・中国の政府は、ユーラシア経済回廊の一環として北京〜ウランバートル〜ウラン・ウデの交通網を整備する輸送協定を締結した。ロシアはウラン・ウデ〜キャフタ間の道路建設工事を完了させた。トランスモンゴルの道路及び鉄道はウラン・ウデのトランスシベリア鉄道に合流する。その途中にあるグシナアジョールスク駅に隣接する生産物流センターを建設、インフラも整備し投資を呼び込みたい意向を示している。またウラン・ウデに住宅建設用地を交付している。
ブリヤート共和国国土にはロシアの鉱物資源全体における亜鉛の48%、モリブデンの31%、鉛の24%、タングステンの20%の埋蔵が確定されているため、これらの金属及び非金属鉱物の採掘を提案している。また、鶏や乳牛及びその他の農牧、生産の複合施設のために借地整備を進めるなど、ビジネス面での条件を整えている。(www.invest-buryatia.ru)
ブリヤートの観光
1. バイカル湖: 世界最大の貯水量を誇り、世界で最も深い水深1642mのこの湖は観光客を魅了し吸い寄せる磁石で世界中に知られている。東岸の湖底が緩やかな傾斜で水温が比較的に暖かい。登山や森林巡り、船旅など多種多様なアトラクションがあるため、国内外からの観光客数は年々増加している。湖の東岸沿い、ウラン・ウデから車で2時間の場所に近代的なログハウスホテル(Baikal riviera)があり、そこで宿泊し、サウナでゆっくりくつろぐことができる.(www.baikalriviera.ru)
モンゴルから年間50万人の観光客がモンゴルとロシア国境の町アルタンブラグを経由してバイカル湖を訪れるようになった。モンゴルの航空会社フンヌ・エアーは昨年夏から水曜日と土曜日の週2回ウランバートルからウラン・ウデまで584㎞の区間をフライトするようになった。価格も鉄道の料金より安い。車で国境を越える12時間の移動時間を1時間に短縮した。(http://www.hunnuair.com/en)
2. ミンクの毛皮: 当時のロシア帝国皇帝の命令で1916年に設立されたバルグジン自然保護地区は湖の東岸中部に位置している。ここで獲られるミンクの毛皮はロシア帝国の代名詞となり、国際市場において高値で取引されていた。バルグジンのミンク保護、繁殖活動は100年前に始まった。17世紀、ロシアの国土が東へと急速に広がった理由の一つは、シベリアの豊富な資源、とりわけミンクの毛皮にあった。(www.barguzinskiy.ru)
3. 温泉: ブリヤート共和国には温泉が多く、その一部ではリゾート化が進んでいる。ウラン・ウデからイルクーツク方面へ連邦道路M-55を車で1時間走った距離にイリンカ村がある。そこに「ゴリャチーバセーン」という深さ150m、水温28℃の温泉があり旅の疲れを癒すことができる。(www.hot-basin.ru)
4. 世界無形文化遺産セメイスキー村: ロシア皇帝エカチェリーナ2世はロシア正教会における革命に反対した数万人を東シベリア、ザバイカルへ強制的に、一部を本人の希望で移住させた。当時、アムール川流域を清王朝から奪う必要があった。移住者の多くはブリヤートの土地に定住し、農業を営み、遊牧民のブリヤート人と協力していた。彼らは大家族で暮らしていたため、シベリアでは「セメイスキー」と呼ばれていた。また彼らはロシアの宗教における古からの儀式を変えたくなかったので「古儀式派」とも呼ばれた。例えば、彼らは新しい儀式の姿勢を3本指ではなく、2本指で十字をきる古儀式姿勢を守り通した。
今まで守ってきた彼らの伝統、風習、音楽や暮らしぶりに接する他に、ロシアの文化、習慣、困難な歴史を理解する機会がノーヴァヤ・ブリャニ村にある。(http://b-etno.ru)
5. イヴォルギンスキー・ダツァン: ウラン・ウデから西へ36㎞の場所に位置するイヴォルガ村に1945年に建設されたダツァン(チベット仏教寺院)がある。1930年代にソビエト連邦がブリヤートの全ての寺院を破壊して以来、初めて建設されたこの寺院ではチベット仏教が繁栄している。1927年にダツァンの12代目パンディト・カンボ・ラマであるイチゲロフが言い残したとおり、蓮華座に祈っている姿勢の死体を木製の棺に入れて埋葬した。75年後に掘り出した時、全く腐敗してなかった彼の遺体をダツァンに移してからはモンゴル人だけではなく、世界の何十万人もの信者が祈りに訪れるようになった。(http://www.culture.ru/institutes/1642/ivolginskii-dacan)
ウラン・ウデ市、2018年2月2日
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