共産主義体制は、独裁者を生み出す。独裁者は、国家安全保障という名の下に、国外に敵国をつくり上げ、国内では自分と異なる思想を持つ者や野党勢力の出現を禁じ、党内のライバルを排除する方法で国家権力を手中に収める。そして、国を統治する「理論」を立て、国防という名の下で経済を軍事や戦争のために完全に向けさせ、やがて破綻に至るのだ。そうして国民はますます貧しくなり、飢えて行くのである。もちろん、このような状況を招く独裁者は、国内外の敵であると言える。独裁者は、敵に対して諜報、弾圧、追放、処罰、投獄、殺害を行うことで、あらゆることを鉄の拳による制裁を持って支配する。
また、独裁者の下に政治局や最高司令評議会などの立派な名を冠したエリートの組織が置かれ、彼らの住む住宅街には専門店、病院、学校、療養所などが作られ、彼らの子どもたちは互いに結婚し、特権階級が形成されていく。
独裁者は、自らの特権と安全を確保するために敵を偵察し、処罰するための特殊部隊を創設し拡充させる。このようにして国に恐怖を植え付けることで、独裁者は無法で無制限の主権を有する「王」となり、そして個人崇拝の思想が完全に実現するのである。
独裁体制は、最終的にはクーデターによって排除されることもあるが、往々にして独裁者が死ぬまで続くのもある。独裁者が死ぬと、全国で大げさな嘆きと哀悼の声が上がるが、やがてそれは憎しみに変わり、骨さえも荒れ地に埋葬される。そして、独裁者の子孫は、人々の軽蔑と憤りの中で生きるのである。
多くの国でこのような道を歩んだ歴史がある。例えば、ソ連、中国、モンゴル、ルーマニア、アルバニア、北朝鮮、キューバなどとても長いリストに連なる。このリストは、今後も続くだろう。
エンヴェル・ホッジャ、アルバニア
ヨーロッパでの第二次世界大戦が終わり、連合軍はアルバニアから撤退した。1944年5月に反ファシスト民族解放委員会が設立され、アルバニア共産党第一書記エンヴェル・ホッジャが委員長を務めた。6ヶ月後、アルバニア共産党はアルバニア政府を掌握し、1946年にアルバニア人民共和国が設立され、エンヴェル・ホッジャが最高指導者となった。翌年、エンヴェル・ホッジャは、モスクワでスターリンと会談した。この2人が会談した回数は全部で5回である。1951年のスターリンの死により、東ヨーロッパ全土でスターリン主義は終焉を迎えたが、この残忍なイデオロギーが1990年まで維持された国はアルバニアのみである。
ホッジャは、1944年12月に政府高官を務めていた66人を逮捕し、彼らの事件を特別法廷で審議した。戦時下の首相、国会議長、閣僚など、西側諸国に留学し、教育を受けた知識のあるエリートたちは、イタリアの侵略者に奉仕したとして非難された。この裁判の判決は、1945年4月にティラナの国立劇場で行われ、その内容がラジオで放送された。判決は、17人が処刑、残りは20〜30年の懲役、5人が無罪というものだった。処刑される者の中にはホッジャの義理の兄も含まれていた。
ホッジャは、新たに39の刑務所と70の収容所を建設した。また、「戦時特別税」を定め、商人や富裕層に非常に高い税金を課していた。税金を支払わなかった人々は投獄され、ほとんどが収容所で死んでいった。民家や車、その他の固定資産は、国有のものとなった。地主の財産は没収され、協同組合に譲渡された。この過程で、東側で教育を受けた共産主義者たちにより、新しいエリート階層が形成されていった。
またホッジャは、ユーゴスラビアの事例を基に「シグリミ(Sigurimi)」と呼ばれる秘密警察を内務省直轄で設立した。政権体制の安全を維持することを主な任務とするこの組織は、46年間存続し、すべてのアルバニア人の心に恐怖を植え付けた悪名高い組織となった。この組織には20万人の工作員がいた。1990年までに、この組織は100万人以上(1975年のアルバニアの人口は240万人だった)の個人ファイルを作成し、各人の政治的思想、信頼性、家族や愛人、いつ、どこで、誰と会い、何を話しているかについて把握していたという。壁を隔てても聞こえる盗聴器の使用が常態化していた。一部の刑務所では、面積10㎡しかない独房に20人以上が収監されていたという。政治的に信頼できないと見なされた者は、逮捕され、独房に収監されるほか、その家族も強制収容所に送られ、子どもたちは学習の機会を持つことが禁じられていた。また、外国の帝国主義者の突然の攻撃に対する防御という名目で、全国に17万5000の掩蔽壕(えんぺいごう:バンカー)が建設された。
スターリンの死去以降、アルバニアは外界から孤立し、中国共産党のみと関係を強め、特定の貿易を展開していた。1985年にホッジャが死去した時、アルバニアは世界第三位の貧困国となっていた。当時一人当たりのGDPは15ドルだった。
ホッジャは、1960年以降外国を訪問しておらず、政治のエリート層が住むティラナの特別区から一歩も出ていないという。特別区の外では店に何もなく、人々は食糧不足で飢餓状態に陥っていた。しかし、それとは対象的にこの特別区には、西側の食料品や日用品があり、専用の病院もあり、ホッジャの治療のために西側の医師団が訪れていたという。
ホッジャは、首相メフメット・イスマイル・シェフーの息子がアメリカで反共運動に関わっていた女性と結婚したことを知り、憤慨した。シェフーを自分の後継者としていたのを取り止め、代わりにラミズ・アリアを後継者として指名した。その後、シェフーは拳銃自殺した。ラミズ・アリアは、ホッジャの死後、6年間政権を担当した。
最後に
近年、モンゴルでは国家の鉄拳を求める声が高まっている。確かに、モンゴルの現状には批判すべきことが無数にある。民主主義への道を歩んできた30年間に多くの成果があったが、それと同時に大気汚染、交通渋滞、貧困、教育の格差、土地および鉱物資源のライセンス取引、汚職など多くの問題に直面しており、私たちはこれらを解決できていない状況にある。当然のことだが国民は憤り、これらの問題を強い指導者が現れ、腐敗した者を全員処罰し、刑務所に収監することを望むようになった。
しかし、民主主義社会では、これらの問題を解決できる唯一の方法は、国民が法執行を要求することである。しかし、今日のモンゴルではその法執行が機能しなくなっている。その主な原因は腐敗である。金で権力を買収し、立法、行政、司法の三権を自分たちの思いのままに操る者たちと政府は闘っても勝てない状況であることが問題である。これらを示す典型的な例は、“サハル”(髭という意味)というあだ名で知られるD.エルデネビレグが引き起こした事件である。彼は、公的資金をさまざまな手口で横領し、政府高官や内閣、裁判所までを買収し、彼が関与した事件の裁判が長年延期を続け、政権交代を待っている。このような例は、開発銀行の融資横領事件をはじめ、中小企業基金融資、教育基金の盗難、石炭横領事件など多数ある。これまでのところ、どの事件も完全に解決されていない。
ここで、私はこれらのすべてを見てきた者として、モンゴル国民にホッジャの時代のアルバニアの悲惨な歴史を思い出してもらいたいと思った。
司法が何も解決できず、正義が確立されず、これが長期化すれば、やがて国民のデモが起こり、混乱が生じ、そしてデモ弾圧が始まる。最後に、救世主として独裁者が出現し、鉄の拳で国民を拘束する。そして独裁者は干渉する外国は敵だと脅迫し、特別体制を確立し、国民全員の財産を没収し、自らの圧政の重要性を主張するようになる。独りによる統治が確立された後、国民の行き着く先は刑務所か、通りの物乞いかの2つだけである。
この記事は、D.ジャルガルサイハンがアルバニアのティラナを訪れた後、書いたものであり、データはインターネットおよび書籍『Blendo Pevziu:Hoxha The Iron Fist of Albania』から引用した。