ノモンハンの温度差

Kanako Onishi
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フォトジェニックな国

8月12〜21日に開催された「MONGOLIA TODAY」というプログラムに参加した。世界各国のフォトジャーナリストが共に旅しながらモンゴルの魅力を写真で表現し、最終日にザナバザル美術館で写真展を行うというものだ。主催はモンゴル写真家協会と国営モンツァメ通信社で、モンゴル政府のNATION BRANDING COUNCIL OF MONGOLIAという組織がサポートしている。

開催第2回目の今年は6カ国(モンゴル、ロシア、日本、中国、韓国、トルコ)から約20人が参加した。その多くが通信社に所属しており、撮影された写真はモンゴル国内の新聞各紙やMNBワールドの特別番組と、RIAノーボスチ・新華社通信・ガーディアンなど海外メディアで配信された。モンゴルの魅力をビジュアルで世界へ発信し、観光業の促進につなげることが本プログラムの重要な目的だ。

旅の初日にトゥーシンホテルでレセプションを行った後、市内観光とヘリコプターからの空撮を経て、夜はウランバートル市長と会食。2日目、車に分乗してヘンテイ県へ入った。3日目、ホロンボイル村を経由してドルノド県チョイバルサン市へ。往復移動距離2,600キロメートルの道中で、写真家達は常にシャッターチャンスを狙う。

ドルノド県の草原を走行中、ロシア軍の戦車隊に偶然出くわした。1939年に起きたハルハ河戦争(ノモンハン事件)80周年記念パレードのために来ているとのことだった。

その翌日はチョイバルサン市南東に位置するタムサグ油田を通りかかった。あたり一帯に水色の石油採掘機が立ち並び、そばを巨大トラックが行き来していた。操業するのは中国石油天然ガス集団(CNPC)傘下企業のペトロチャイナ・ダチン・タムサグ社で、同社はこの油田における20年間の採掘権を得ている。

戦勝記念碑と新しい村

4日目にボイル湖へ、5日目にようやくハルハ河へ到着した。ハルハ河戦争の現場となった草原には記念碑がいくつも点在し、1939年の停戦直後にソ連軍が建てたM.P.ヤコヴレフ記念碑、戦死したソ連軍将兵のための90勇士の記念碑、日本軍の爆弾が最初に落ちた地点に作られた記念碑、日本軍の侵略をソ連・モンゴル軍が阻止したことを讃えるゲルのハーナ型の記念碑、戦勝45周年の1984年に作られた高さ54メートルのハルハ河戦勝記念碑などを見た。ちなみにウランバートル市のザイサン丘にある記念碑はモンゴル人民革命50周年の1971年に建てられたものだ。

こうして戦勝記念の節目ごとに記念碑が作られてきたが、80周年の今年はかつてない規模のプロジェクトが進んでいた。ハルハ河戦勝記念碑のそばにある人口3,000人余りのハルハ河郡に「新しい村」が建設されたのだ。1年前にバトトルガ大統領がプーチン大統領にハルハ河郡の開発計画を提案し、ロシア最大の国営石油会社ロスネフチから1,000万ドルの寄付を得た。その援助で住宅、学校、幼稚園、病院、スポーツ施設、役所などが一斉に新築され、私たちが訪れた8月半ばに工事が急ピッチで行われていた。

80周年に対する温度差

8月28日の昼、ウランバートル市内で空を切り裂くような轟音が一瞬響いた。ロシアの新型ジェット4機による戦勝記念飛行ショーの音だった。

これに対し、モンゴルの人々の反応は二分していた。「一糸乱れず飛ぶジェット機が見事で素晴らしかった。ロシアとモンゴルの友情が導いた戦勝80周年が誇らしい」という肯定的な意見と、「独立国家モンゴルの空をなぜロシア軍機が飛ぶ必要があるのか? ロシアをアピールするために戦勝80周年が利用されている」という否定的な意見である。

歴史研究者のバーバル氏は今年6月の共同通信の取材に対し、「社会主義的なプロパガンダの復活はモンゴル民主化の流れに逆行する」と主張。ロシア側がハルハ河戦争を記念する意図について、「強いロシアを誇示するほか、北方領土もハルハ河戦争も歴史の結果として受け入れるよう日本に圧力を加えるためだ」と述べた。

9月3日にウランバートルで行われた戦勝80周年記念式典にはプーチン大統領も参加し、バトトルガ大統領とレッドカーペットを歩いて過去の勝利を讃えた。翌日4日からウラジオストクで東方経済フォーラムが開幕。日露首脳会談が予定されていた5日の未明には、ロシア企業が色丹島に建設した大規模水産加工施設の稼働開始式典にプーチン大統領がビデオ中継で祝辞を送った。その後の日露会談で北方領土問題に進展がなかったのは言うまでもない。

ハルハ河戦争80周年の捉え方について、モンゴル国内の反応以上に大きなギャップを感じたのは、日本側の関心の低さである。8月前後にかけてモンゴルのメディアではハルハ河戦争関連の報道が多く出たが、日本のメディアではごくわずかだった。日本の学校ではノモンハン事件についてあまり学ばないため、そもそも認知度が高くない。知らなければ関心を持ちようがない。

私はかつてモンゴルの知人から「モンゴルが親日国だと思っているなら、それはちょっと違う。一部のモンゴル人はハルハ河戦争の恨みを今も忘れていない」「日本のスパイ容疑で万単位のモンゴル人が処刑されたが、僕の家族もその1人」と言われたことが印象に残っている。モンゴルは過去、ハルハ河戦争と第二次世界大戦末期の対日参戦の二度にわたり日本と戦火を交えた。それらを経て現在、民主化されたモンゴルと戦後の日本が新たな友好関係を築いている最中だ。

今回訪れたハルハ河郡には戦争記念博物館があり、ガラスケースの中に日本兵の遺品が収められていた。ソ連軍の戦車に向かって肉弾攻撃をする際にガソリンを詰めたと思われる空き瓶や歯ブラシや財布。別の時代を生きる同じ日本人として、この戦争についてもっと知りたいと思った。

フリーランスライター 大西夏奈子 Kanako Onishi

2019年9月

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